주자어류/권133 본조7 本朝七

朱子語類卷第一百三十三

  •   本朝七
  • ∞∞∞∞盜賊
  •  133:1 蜀中有趙敎授者, 因二蘇斥逐, 以此搖動人心, 遂反. 當時也自響應, 但未幾而哲宗上仙, 事體皆變了, 所以做得來也沒巴鼻. 蜀人大故强悍, 易反. 成都嘗有一通判要反, 已自與府中都吏客將皆有謀了. 不知如何, 一婢走出來告云, 日逐有官員來議事. 帥因下簾, 令辨府中人, 則皆每日所見合謀者, 其事遂敗. 義剛(64이후).
  •  133:2 方臘起, 向薌林時爲小官. 言今無策, 只有起劉元城陳了翁作相, 則心不戰而自平. 揚(54-6때).
  •  133:3 伊川嘗說, 今人都柔了. 蓋自祖宗以來, 多尙寬仁, 不曾用大利之屬, 由此人皆柔軟, 四方無盜賊. 後來靖康時多盜, 蓋虜難方急, 朝廷無暇治之耳. 且如紹聖之後, 山東河北連年大饑而盜作, 也皆隨卽仆滅. 但見長上云, 若更遲四五年, 虜人不來, 盜亦難禁止, 蓋是饑荒極了. 義剛(64이후).
  •  133:4 方臘之亂, 愚民望風響應. 其閒聚黨劫掠者, 皆假竊臘之名字, 人人曰“方臘來矣”! 所至瓦解. 臘之婦紅裝盛飾, 如后妃之象. 以鏡置胸懷間, 就日中行, 則光采爛然, 競傳以爲祥瑞. 儒用(70때).
  •  133:5 論及楊公, 云: “當時也無甚大賊, 不過只是盜賊而已. 如李成之徒, 也只是劫掠. 若無討, 則不過自食人, 皆不是做事底.” 義剛(64이후).
  •  133:6 建賊范汝爲本無技能, 爲盜亦非其本心. 其叔積中, 卻素有包藏, 陰結徒黨, 置兵器滿倉箱中. 其徒勸之擧事, 每每猶豫, 若有所待. 有不快於中者, 輒火十數家, 且殺人, 因劫之爲首, 其人終不肯, 但曰: “時未可, 我決不能爲, 汝輩可別推一人爲主.” 衆遂擁戴汝爲, 勢乃猖獗. 建之士如歐陽穎士施逵吳琮者, 善文章, 多材藝, 或已登科, 皆望風往從之. 置僞官, 日以蕭曹房杜自相標置, 以漢祖唐宗頌其功德. 汝爲愚人, 偃然當之. 朝廷遣官軍來平賊. 時秋稼已熟, 賊聞官軍且至, 放水灌田, 又以禾穟相結連, 已而決塍去水. 官軍至, 不諳其山川道路. 賊縱之入山, 山路險隘, 騎卒不能前. 賊覺官軍已疲困, 乃出平原以誘官軍. 官軍出山, 爭趨田中, 旣爲結穟牽絆, 又陷泥淖. 賊因四面鏖擊之, 官軍大敗. 乘勝據建州三年, 累降累叛. 竟遣韓世忠來, 方能勦除之. 汝爲自縊, 尸爲衆所焚, 弗獲. 初, 建人陸棠謝尙有鄕曲之譽. <陸乃龜山婿. 爲士人時, 極端重, 頗似有德器者.> 賊聲言: “使二人來招我, 吾降矣.” 朝廷遣之. 旣而賊有二心, 乃拘繫久之. 歐陽輩又說之日益切, 因循遂爲賊用. 賊敗, 歐陽穎士吳琮先誅死, 陸謝施逵以檻車送行在. 至中途, 逵謂二人曰: “吾輩至, 必死. 與其戮於市朝, 且極痛楚, 曷若早自裁?” 二人曰: “何可得自死?” 逵曰: “易爾.” 乃密令人爲藥三元, 小大形色俱相似, 一乃無毒者. 逵取無毒者服之, 餘二人服卽死. 逵旣至行在, 歸罪於二人, 理官無所考證, 迄從末減, 但編置湖南某州, 中途又逃去, 或爲道人, 或爲行者, 或爲人典庫藏, 後迤𨓦望淮去. 有喜其材者, 以女妻之. 住數月, 復北走降虜, 改名宜生, 登僞科後, 擢用甚峻. 逆亮將犯淮時, 猶爲之奉使. 比來時, 黃尙書通老爲館伴. 黃幼與之同筆硯, 雅相好, 至是不欲見其人, 以疾辭. 遂改召張子公. 宜生猶問子公: “通老安在!” 子公以實對. 欲扣虜中事, 不可得. 因登六和塔, 子公領客, 宜生先登, 亟問之曰: “奉使得無首丘之念乎?” 宜生曰: “必來.” 言方終而介使至, 宜生色爲之變. 旣歸, 卽爲虜所誅. <龍泉尉施慶之乃其族也. 嘗擧宜生十數詩. 內入使時題都亭驛詩云: “江梅的礫未全開, 老倦無心上將臺. 人在江南望江北, 斷鴻聲裏送潮來.” 又按蕭閑集注, 宜生字朋望, 建安浦城人, 宣政間爲潁川敎授, 與宗室趙德麟友善. 後仕劉豫. 豫廢, 歸其國. 歷南臺郎中, 刺隰深二州, 召爲禮侍, 累遷侍講, 道號“三住道人”.> 儒用(70때).
  •  133:7 一士人見龜山, 容貌甚端莊, 坐不動, 每來必如是, 以此喜之. 一日, 引入書院, 久坐. 忽報有客, 龜山出接, 士人獨坐, 凝然不動如故. 宅眷壁外窺之, 大段驚異. 士人別去, 家人以實告, 皆稱其如此好人, 愈爲所取. 後以女妻之, 乃陸棠也. 及范汝爲作亂, 棠入其黨, 見矯情飾貌之難信也. 過(65이후).
  •  133:8 李楫寇廣西, 出榜, 約不收民稅十年, 故從叛者如雲, 稱之爲“李王”, 反謂官兵爲賊. 以此知今日取民太重, 深是不便. 廣(65이후).
  •  133:9 瀘州之事, 朝廷旣是命委淸强官體究, 帥司若有謀, 只那體究官便是捉賊官. 且如揀差體究官, 帥司祇密著一不下司文字與之, 令到地頭體究, 隨宜便與處分. 若體究官到彼, 他見朝廷之意未十分來煎迫, 亦須開門放入. 但只與之言: “今日之事旣是如此, 若大兵四合勦滅, 亦不難. 今亦未能如是, 但你這頭首人, 合當出來陳說始初是如何.” 及其旣至, 則收而梟之, 事卽定矣. 若遽然進兵掩捕, 則事勢須激, 城中之人不可保, 而州郡必且殘破. 道夫(60이후).
  • ∞∞∞∞夷狄
  •  133:10 西夏李繼遷本夷狄, 姓托跋, 後賜姓李. 五代時有其地, 國初世襲. 太宗欲取之, 遂召繼遷歸京師, 以別人代之. 一日, 繼遷逃歸. 朝廷費無限心力不能得, 遂以其兄繼隆知夏州, 令招之. 其兄遂陰與之合, 每奏朝廷, 謂已無事. 後朝廷又召其兄歸, 繼遷遂復有其地. 靈州屬朝廷, 又在西夏之外, 爲西夏截斷, 又以兵圖之, 使不得通朝廷. 靈州絶遠, 難救援. 又其地渾沙無水, 不可掘. 每兵行, 則用水以自隨, 渴殺了多少. 人行其沙, 地上皆動, 陷了數百人馬, 只見不在. 太宗心欲棄之而不言. 時參政張洎<南唐亡國之臣, 專以諂敗其主. 歸, 又以諂遭遇.> 揣知上意, 卽進可棄之說. 上問宰相呂端, 又令各進說. 端言, 如此則各有說, 非僉議合謀之意. 洎卽詆端避事. 端言, 洎不過揣合上意. 後洎卽進說, 端不曾進. 上謂洎揣合果如端言, 封還其說. 朝廷遂詔靈州守臣出兵與接, 漸漸離去棄之. 張齊賢以爲不可, 如此則被夏人掩殺, 須是與之戰, 勝則得之, 不勝則漸漸引去. 方議未定, 忽報靈州已爲夏人所破矣, 因而爲彼所有. 後來朝廷費了幾多氣力去取. 韓范輩用兵後, 徐禧永樂之敗是也. 張魏公舊官於陝西, 嘗登高望見西夏界外, 則西夏土地亦不甚闊. 如何强盛, 被他守得如此好! 祖宗時, 兵每出輒敗. 今依舊五州, 全又更取過那邊去了, 土地合闊矣. 只見强盛, 虜人亦不柰何, 當時亦曾敗於彼. 揚(54-6때).
  •  133:11 因論西夏事, 曰: “當時事不可曉. 看來韓范亦無素定基本, 只是逐旋做出. 且如當時覆軍敗將, 這下方且失利, 他之勢甚張; 忽然自來納款求和, 這全不可曉. 後來不久, 元昊遂死. 不知他不死數年, 又必有甚姦謀, 大未可知. 且如當時朝廷必欲他稱臣, 遂使契丹號令之. 契丹方自以爲功, 朝廷正未有所處, 又卻二國自相侵凌. 不爾, 則當時又須費力. 大抵西人勇健喜鬥, 三五年必一次爲邊害. 本朝韓范張魏公諸人, 他只是一箇秀才, 於這般事也不大段會. 只是被他忠義正當, 故做得恁地.” 道夫(60이후).
  •  133:12 或問: “范文正公經理西事, 看得多是收拾人才.” 曰: “然. 如滕子京孫元規之徒, 素無行節, 范公皆羅致之幕下. 後犯法, 又極力救解之. 如劉滬張亢亦然. 蓋此等人是有才底, 做事時, 須要他用, 但要會用得他.” 又云: “范公嘗立一軍爲‘龍猛軍’, 皆是招收前後作過黥配底人, 後來甚得其用. 時人目范公爲‘龍猛指揮使’.” 又曰: “方范公起用事時, 軍政全無統紀, 從頭與他整頓一番. 其後卻只務經理內地, 養威持重, 專行淺攻之策, 以爲得寸則吾之寸, 得尺則吾之尺. 卒以此牽制夏人, 遣使請和.” 儒用(70때).
  •  133:13 問: “本朝建國, 何故不都關中?” 曰: “前代所以都關中者, 以黃河左右旋繞, 所謂‘臨不測之淵’是也. 近東獨有函谷關一路通山東, 故可據以爲險. 又, 關中之山, 皆自蜀漢而來, 至長安而盡. <池錄作“關中之山皆自西而東”.> 若橫山之險, 乃山之極高處. <橫山皆黃石山, 不生草木.> 本朝則自橫山以北, 盡爲西夏所有, 山河之固, 與吾共之, 反據高以臨我, 是以不可都也. 神宗銳意欲取橫山, 蓋得橫山, 則可據高以臨彼. 然取橫山之要, 又在永樂. 故永樂之城, 夏人以死爭之, 我師大敗. 神宗聞喪師大慟, 聖躬由是不豫.” <按編年, 重和元年, 童貫命种師道劉延慶等取夏國求和等寨, 大敗夏人而還. 六月, 夏人納款. 初, 夏人恃橫山諸險以抗中國. 慶曆中, 王嗣宗范仲淹建議取之, 會元昊納款而止. 元豐中, 李憲建議, 又會王師失利, 神宗厭兵, 不克行. 貫嘗從憲得其規摹. 政和初, 議進築. 至是十餘年, 遂得橫山之地. 夏人失援, 故納款. 然國家是時已建下燕之策, 益以多故. 其後西夏與女眞人. 乙巳冬, 女眞圍太原, 夏人犯河外, 則是橫山之取, 有以結怨於彼也.> 又曰: “神宗初卽位, 富韓公爲相, 問爲治之要, 富公曰: ‘須是二十年不說著“用兵”二字.’ 此一句便與神宗意不合. 已而擢用王介甫, 首以用兵等說稱上旨, 君臣相得甚懽. 時建昌軍司戶王韶上平戎策, 介甫力薦之. 初爲秦鳳路經略, 司機宜, 後知通遠軍, 遂一戰而復熙河. 捷書聞, 上大喜, 解白玉帶以賜介甫, 賞其知人; 又加韶爲龍圖閣侍待制, 以爲熙河帥. 熙河本鎭洮軍, 因復其地, 改爲熙州. 只是廣漠之鄕, 有之不加益, 無之不加損. 狃於一勝之後, 廟論一意主於用兵, 三敗至於永樂, 極矣. 永樂之敗, 徐禧死之. 禧, 師川之父, 黃魯直之妹夫也. 能文章, 好談兵, 也有進策行於世, 文字甚好. 二蘇之文未出, 學者爭傳誦之.” 儒用(70때).
  •  133:14 神宗其初要結高麗去共攻契丹. 高麗如何去得! 契丹自是大國, 高麗朝貢於彼, 如何敢去犯他! 義剛(64이후).
  •  133:15 人主好勤遠略底, 也是無意思. 當初高麗遣使來, 朝廷只就他使者以禮答遣之, 神宗卻要別差兩使去. 緣他那裏知文, 故兩使皆侍從, 皆是文人. 高麗自是臣屬之國, 如何比得契丹! 契丹自是敵國. 義剛(64이후).
  •  133:16 嘗見韓無咎說高麗入貢時, 神宗喩其進先秦古書. 及進來, 內有六經不曾焚者. 神宗喜, 卽欲頒行天下. 王介甫恐壞他新經, 遂奏云: “眞僞未可知. 萬一刊行後, 爲他所欺, 豈不傳笑夷夏!” 神宗遂止, 本亦不傳. 以某觀之, 未必有是事. 蓋招徠高麗時, 介甫已不在相位. 且神宗是甚次第剛明! 設使所進眞有契於上心, 亦豈介甫所能止之? 又記文昌雜錄中說, 高麗所進孝經門<上下一二句記未眞.> 緯經, 只是讖緯之書, 必無進先秦古書之事. 但嘗聞尤延之云: “孟子‘仁也者人也’章下, 高麗本云: ‘義也者, 宜也; 禮也者, 履也; 智也者, 知也; 信也者, 實也: 合而言之, 道也.’” 此說近是. 儒用(70때).
  •  133:17 或問高麗風俗好. 曰: “終帶蠻夷之風. 後來遣子弟入辟雍, 及第而歸者甚多. 嘗見先人同年小錄中有‘賓貢’者, 卽其所貢之士也. <“賓貢”二字, 更須訂證.> 當時宣賜幣帛之外, 又賜介甫新經三十本, 盛以黑函, 黃帕其外, 得者皆寶藏之. 儒用(70때).
  •  133:18 國家方與女眞和時, 高麗遣使來求近上醫師二人. 上召老醫, 擇二人遣往. 至則日夕厚禮, 皆不問醫, 而多問禁中事. 二醫怪而問之, 高麗主曰: “我有緊密事, 欲達宋皇. 恐所遣使不能密, 故欲得宋皇親近之人而分付之. 所以問公禁中事者, 欲以見公是所親信耳.” 二人因問之, 高麗主曰: “聞宋皇欲與女眞和, 夾攻契丹, 此非良策. 蓋我國與女眞陸路相通, 常使人察之. 女眞不是好人, 勝契丹後, 必及宋, 而吾國亦不能自存, 此合當思所以備之.” 二人問所以備之之說, 曰: “女眞作一陣法甚好, 我今思得一法勝之.” 因令觀敎其女眞陣, 蓋如拐子馬之類. 二人歸奏, 上怒, 召老醫而責之. 其一人出門吐血, 後不死; 其一人歸卽死. 義剛(64이후). <儒用錄云: “先生嘗見玉山汪丈云, 得之御史臺一老吏. 方徽宗通好女眞, 爲滅遼之約, 高麗有所聞, 欲納忠誠, 不可得. 遂托病遣使求醫於本朝, 且願得供奉內庭·上所親信者. 遂擇二國醫以往. 至則館御供帳, 其禮甚厚, 但經月無引見之音. 二醫怪之, 私有請於館伴者. 一日, 得旨入見, 引至內庭. 盡屛左右, 諭二醫曰: ‘寡人非病也. 顧有誠款, 願效於上國, 欲得附卿奏之, 幸密以聞! ’二醫許諾. 則曰: ‘女眞人面獸心, 貪婪如豺狼, 安可與之共事? 今不早圖之, 後悔無及! 聞其訓練國人皆爲精兵, 累歲有事於燕, 每戰轉勝. 小國得一二陣法, 可與之角. 如欲得之, 敢不唯命! ’諭畢, 方厚爲之禮而遣之. 二醫歸, 具奏本末. 徽宗聞之, 滋不樂, 且懼其語泄. 丞相童蔡輩乃爲食於家, 召二醫以食之, 食畢而斃.”>
  •  133:19 高麗與女眞相接, 不被女眞所滅者, 多是有術以制之. 高麗要五十餘主, 今此方爲權臣所簒而易姓. 義剛(64이후). <又一條云: “高麗得四十主. 今已易姓, 姓王.”>
  •  133:20 金虜舊巢在會寧府, 四時遷徙無常. 春則往鴨綠江獵; 夏則往一山, 忘其名. 極冷, 避暑; 秋亦往一山如何; 冬往一山射虎. 今都燕山矣. 揚(54-6때).
  •  133:21 燕山之北, 古有大山嶺爲隔, 但有一路傍險水. 後來石晉以與耶律, 則其險路在其度內矣. 揚(54-6때).
  •  133:22 燕山是古幽州; 石晉割賂契丹. 契丹旣爲金人所滅, 其種之傑者遂來據燕. 其主死, 其妻蕭太后主之. 童貫蔡攸往取之番. 番兵敗後, 金人自取之. 朝廷求之, 遂盡載數州之物·婦女之類而去, 更索厚資賣之. 朝廷以其所索之物與之, 遂得數州空地, 朝廷空內資以守之. 郭藥師者, 燕將, 初歸本朝. 金人來取燕, 遂歸金, 郭只留守燕. 及本朝得燕, 郭又迎降. 金人一日大節, <冬至之類.> 官吏都集賀郭. 郭留飮, 盡取各人家屬之類盡來飮. 少頃, 金人兵至, 無一人得脫者, 自此遂入寇矣. 朝廷與大遼結好百十年矣, 一日忽與金人約共攻遼, 而本朝無一人往. 是時方十三起, 童貫自這邊來了, 遂不及往. 旣失約, 後取燕又是金人. 金人見本朝屢敗兵於燕, 遂有入寇之心. 是時相王黼主其事, 童貫主兵, 蔡攸副之. 蔡京不主, 作詩送其子云: “百年信約宜堅守, 六月師徒早罷休.” 京作事都作兩下: 取燕有功, 則其子在; 無功, 則渠不曾主. 又有一子絛上書言其父不是, 聞亦是其父之謀也. 金寇初圍城時, 京云: “有一策可使虜人一兵不反.” 朝廷使人問之, 云: “見上方可言.” 寇去, 人問之, 云: “決汴河可以灌之.” 後寇再來, 未至時已決之矣. 東南數千里, 渺然巨浸, 西北遂爲寇所據. 四方音問一信不通, 以此故也. 揚(54-6때).
  •  133:23 粘罕圍太原一年有餘, 姚師古輩皆爲其戰退, 遂破太原. 張孝純守太原一年, 多少辛苦. 及城破, 拌一死不得, 遂降, 後爲劉豫處官. 太原旣破, 遂一直圍京城. 揚(54-6때).
  •  133:24 李若水勸欽宗出. 李謂虜人可信, 醉後枕人睡熟, 以此信之. 揚(54-6때).
  •  133:25 金人初起時, 初未立將. 臨發兵, 召集庭下問之, 有能言其策之善者, 卽授以將, 使往. 及成功而歸, 又集庭下問衆人而賞之金幾多. 衆人言未得, 又加之. 賞罰如此分明, 安得不成事! 揚(54-6때).
  •  133:26 虜人有一謀時, 聚諸尊長於一屋內, 全不言, 只用一物畫地, 謀了便各去做. 如其事難決, 便出野外無人處去商量. 揚(54-6때).
  •  133:27 兀朮征蒙, 死於道, 有三策獻於虜主: 一則以汴京立淵聖, 欲招致江南之人; 二則以近上宗室守邊; 三則講和. 曰: “若行前二者, 也被他攪.” 又曰: “道君有子四十人, 只放二十人歸來. 這二十人親王, 也要物事供他.” 燾(70때).
  •  133:28 “虜至紹興, 守臣李鄴降虜. 及駕至明州, 張俊大殺一番. 駕泛海, 虜人走. 明州人今尙怨張俊不乘時殺去, 可大勝, 遂休了. 辛巳, 逆亮來時, 一隊自海中來, 李寶自膠西殺敗. 李鄴旣降, 與虜酋並馬出. 有一衛士赴駕不及, 尙留紹興見之. 以一大方磚逐打其酋, 幾中, 因被害, 死之. 今立一廟在其所, 賜旌忠額. 後人皆於其廟賣酒, 某至, 一切逐去之, 說與王書, 令崇奉之.” 先生又云: “某在時, 更爲大其廟. 其衛士姓唐.” 揚(54-6때).
  •  133:29 劉豫來寇, 朝廷只管謀避計. 李伯紀云: “自南京退維揚, 遂失河東北; 自維揚退金陵, 遂失京東西. 一番退, 一番失. 設若是金人來, 柰熱不得, 亦著去, 不能久留. 今又只是劉豫, 只是這邊人. 渠得一邑, 守一邑; 得一郡, 守一郡. 如何只管遠避!” 揚(54-6때).
  •  133:30 逆亮入寇時, 劉信叔在揚州. 亮欲至, 劉盡焚城外居屋, 盡用石灰白了城, 多寫“完顔亮死於此”字. 亮多忌, 見而惡之, 遂居龜山. 人多不可容, 必致變, 果死滅. 揚(54-6때).
  •  133:31 王仲衡云: “虜中大臣有過時, 用紫茸氈鋪地, 令伏其上杖之, 嘗有一宰相·一駙馬受杖. 駙馬因此悒怏而死, 非恨其杖也, 恨不得紫茸氈也.” 又曰: “嘗有一官人出, 有一吏人來, 至其花園中, 背上黃袱, 袱得一束文字. 某問: ‘何文字?’ 曰: ‘史書也.’ 那官人伊是史官. 某問: ‘可借否?’ 曰: ‘不妨.’ 遂開看. 內有一段云: ‘詔曰: “宰相姓名某. 謀南伐, 若以爲是, 合盡心以贊其謀; 以爲不是, 合盡忠極力以諫之. 不可依違以敗成算. 今某人略略諫之, 可杖六十.” ’”揚.
  •  133:32 “楊割大師阿骨打·<楊割之子.> 吳乞買. 阿骨打之弟. 完顔亶·乞買之子. 完顔亮·完顔雍·葛王璟·斡離不·斡離嗢·兀朮, 皆阿骨兄弟也. 阿骨打旣死, 諸酋立其弟吳乞買, 乞買死, 國人欲立阿骨打之子暗版孛訖烈. <此五字不知如何, 記不得.> 暗版孛訖烈, <名宗盤.> 虜中謂‘大官人’也. <暗版者, 大也; 孛訖者, 官人也.> ‘大官人’者, 卽所謂太子也. 諸酋不肯, 復立乞買之子完顔亶, 而以暗版孛訖烈爲相. 暗版孛訖烈實懷怨望, 云己當爲主. 亶覺之, 遂殺宗盤. 一日遂盡誅二十七王, 悟室亦被誅, 孛訖烈亦在其中, 二十七王皆其黨與兄弟也. 連蔓宗族親舊皆殺了. 亶又爲亮所弑, 自立. 葛王先名褎, 後以其字似“衰”字, 遂改名雍. 亶·亮皆兄弟也. <亶之父行名皆從“宗”, 兄弟名皆從“上”.> 粘罕亦阿骨打族人, 嘗爲相. 初入中國, 破京師, 斡離不·粘罕也. 斡離不早死, 斡離嗢後亦早死. 粘罕後來勸立劉豫, 內則蕭慶主其事, 蕭慶用事久. 及兀朮撻懶廢劉豫而誅蕭慶, 粘罕爭之不能得, 亶遂忌之, 粘罕悒怏而死. 後來獨兀朮得後死. 初, 虜入中國, 問何姓最大. 中原人答以王姓最大. 虜人呼王爲‘完顔’. 自是王者之後, 遂姓完顔.” 又問: “虜人今漸衰替?” 曰: “卒急倒他未得. 被他立得箇頭勢大, 若十分中做得一兩分事, 便足以扶持振起. 除是大無道殘暴酷虐, 則不知如何. 若是如此做將去, 無大段殘暴之事, 恐卒消磨他未得, 蓋其勢易以振起也.” 卓(미상).
  •  133:33 論及北虜事, 當初起時, 如山林虎豹縱於原野, 豈是人! 伯謨曰: “當時曲端獻策, 不出十年, 彼必以酒色死, 方可取.” 先生曰: “阿骨打纔得幽州, 便死. 曾見有人論虜人無事權在其主, 用兵權在將, 故虜主不用兵. 此說是. 大抵當初出時是夷狄, 及志得意滿, 與我何異?” 因與某人欲請邊郡自效. 先生曰: “易曰: ‘知進退存亡而不失其正者, 其惟聖人乎! ’上之人不欲用兵, 而我自欲爲之, 是不識時.” 問: “恢復之事, 多始勤終怠, 如何?” 曰: “只以私意爲之, 不以復讎爲念.” 可學(62때).
  •  133:34 葛王大故會. 他所以要和親者, 蓋恐用兵時諸將執兵權, 或得要己. 不如和親, 可坐享萬乘之樂. 其初雖是利於用兵, 到後來惟恐我與他冢殺. 義剛(64이후).
  •  133:35 葛王便是會底. 他立得年號也强, 謂之“大定”. 義剛(64이후).
  •  133:36 葛王懲逆亮之敗, 一向以仁政自居.
  •  133:37 先生喟然歎曰: “某要見復中原, 今老矣, 不及見矣!” 或者說: “葛王在位, 專行仁政, 中原之人呼他爲‘小堯舜’.” 曰: “他能尊行堯舜之道, 要做大堯舜也由他.” 又曰: “他豈變夷狄之風? 恐只是天資高, 偶合仁政耳.” 友仁(69때).
  •  133:38 南渡之後, 說復讎者, 惟胡氏父子說得無病, 其餘並是半上落下說. 雖魏公要用兵, 其實亦不能明大義, 所以高宗只以區區成敗進退之. 到秦檜主和, 虜歸河南, 上下欣然, 便只說得地之美, 更不說不義. 若無范伯達如圭, 則陵寢一向忘之矣! 魏公時謫永州, 亦入文字, 只說莫與之和, 如何感動! 魏公傾五路兵爲富平之敗, 又潰於淮上. 若無氣力, 也是做不得事. 韓魏公煞是箇人物, 然亦適是人事恰做得. 若更向上, 且怕難擔當. 賀孫(62이후). 論恢復.
  •  133:39 檜死, 上卽位, 正大有爲之大機會! 揚(54-6때).
  •  133:40 邵弘取泗州, 胡昉取海州. 邵公人脚家. 胡角場牙人. 唐鄧汝三州, 皆官軍取之, 王師駸駸到南京矣, 而諸將虜掠婦女之類不可言. 吳玠更要人錢, 虜騎來, 走歸矣! <虜人一番圍泗洲, 弘力扼之, 後救兵至, 方解.> 揚(54-6때).
  •  133:41 泗海唐鄧四州, 皆可取西京中原之地. 逆亮來時用兵, 僅取得此四州, 而湯思退無故與之, 惜哉! 揚(54-6때).
  •  133:42 晉人下吳, 卻是已得蜀. 從蜀一造船, 直抵南岸. 周世宗只圖江南, 是時襄漢蜀中別有主, 所以屯淮上, 開河抵江. 今蜀中出兵, 可以入武關; 從襄漢樊鄧可以擣汝洛; 由淮上可以取徐州. 辛巳間, 官軍已奪宿州. 國家若大擧, 只用十五萬精兵. 德明(44이후).
  •  133:43 江州皇甫將<名倜.> 曾領兵守信陽, 作山寨三年. 云: “由其山接金房諸山而出, 取西京中原.” 云: “國家用事, 某願當此一路.” 云: “都不用國家兵糧, 沿路人皆自願爲兵, 且與糧.” 其人忠醇, 能同甘苦, 得士心, 不附內貴, 然亦未必能以律御兵而戰也. 揚(54-6때).
  •  133:44 陳問: “復讎之義, 禮記疏云: ‘穀梁春秋許百世復讎’又某書, 庶人許五世復讎. 又云: ‘國君許九世復讎.’ 又, 某人引魯桓公爲齊襄公所殺, 其子莊公與齊桓公會盟, 春秋不譏. 自桓至定公九世, 孔子相定公, 會齊侯於夾谷, 是九世不復讎也. 此說如何?” 曰: “謂復百世之讎者是亂說. 許五世復讎者, 謂親親之恩欲至五世而斬也. 春秋許九世復讎, 與春秋不譏·春秋美之之事, 皆是解春秋者亂說. 春秋何嘗說不譏與美他來! 聖人作春秋, 不過直書其事, 美惡人自見. 後世言春秋者, 動引譏·美爲言, 不知他何從見聖人譏·美之意.” 又曰: “事也多樣. 國君復讎之事又不同.” 僩云: “如本朝夷狄之禍, 雖百世復之可也.” 曰: “這事難說.” 久之, 曰: “凡事貴謀始, 也要及早乘勢做. 才放冷了, 便做不得. 如魯莊公之事, 他親見齊襄公殺其父, 旣不能復; 又親與之宴會, 又與之主婚, 築王姬之館於東門之外, 使周天子之女去嫁他. 所爲如此, 豈特不能復而已? 旣親與讎人如此, 如何更責他報齊桓公! 況更欲責定公夾谷之會, 爭那裏去? 見讎在面前, 不曾報得, 更欲報之於其子若孫, 非惟事有所不可, 也自沒氣勢, 無意思了. 又況齊桓公率諸侯尊周室以義而擧, 莊公雖欲不赴其盟會, 豈可得哉! 事又當權箇時勢義理輕重. 若桓公不是尊王室, 無事自來召諸侯, 如此, 則莊公不赴可也. 今桓公名爲尊王室, 若莊公不赴, 非是叛齊, 乃叛周也. 又況桓公做得氣勢如此盛大, 自家如何便復得讎? 若欲復讎, 則襄公殺其父之時, 莊公當以不共戴天之故, 告之天子·方伯·連率, 必以復讎爲事, 殺得襄公而後已, 如此方快. 今旣不能然, 又親與之同會, 與之主婚, 於其正當底讎人尙如此, 則其子何罪? 又況其子承其被殺後而入國, 又做得國來自好, 莊公之所不如, 宜其不能復而俛首事之也.” 陳問: “若莊公能殺襄公了, 復與桓公爲會, 可否?” 曰: “旣殺襄公, 則兩家之事已了, 兩邊方平, 自與桓公爲會亦何妨? 但莊公若能殺襄公, 則‘九合諸侯, 一正天下’之功, 將在莊公而不在齊桓矣. 惟其不能, 所以只得屈服事之也. 只要乘氣勢方急時便做了, 方好. 才到一世二世後, 事便冷了. 假使自家欲如此做, 也自鼓氣不振. 又況復讎, 須復得親殺吾父祖之讎方好. 若復其子孫, 有甚意思? 漢武帝引春秋‘九世復讎’之說, 遂征胡狄, 欲爲高祖報讎, 春秋何處如此說? 諸公讀此還信否? 他自好大喜功, 欲攘伐夷狄, 姑托此以自詭耳! 如本朝靖康虜人之禍, 看來只是高宗初年, 乘兀朮粘罕斡離不及阿骨打未死之時, 人心憤怒之日, 以父兄不共戴天之讎, 就此便打疊了他, 方快人意. 孝宗卽位, 銳意雪恥, 然事已經隔, 與吾敵者, 非親殺吾父祖之人, 自是鼓作人心不上. 所以當時號爲端人正士者, 又以復讎爲非, 和議爲是. 而乘時喜功名輕薄巧言之士, 則欲復讎. 彼端人正士, 豈故欲忘此虜? 蓋度其時之不可, 而不足以激士心也. 如王公明炎虞斌父之徒, 百方勸用兵, 孝宗盡被他說動. 其實無能, 用著輒敗, 只志在脫賺富貴而已. 所以孝宗盡被這樣底欺, 做事不成, 蓋以此耳.” 僩云: “但不能殺虜主耳. 若而今捉得虜人來殺之, 少報父祖之怨, 豈不快意?” 曰: “固是好, 只是已不干他事, 自是他祖父事. 你若捉得他父祖來殺, 豈不快人意! 而今是他子孫, 干他甚事?” 又問: “疏中又引君以無辜殺其父, 其子當報父之讎, 如此則是報君, 豈有此理?” 曰: “疏家胡說, 豈有此理!” 又引伍子胥事, 說聖人是之. 曰: “聖人何嘗有明文是子胥來! 今之爲春秋者都是如此.” 胡問: “疏又引子思曰: ‘今之君子, 退人若將墜諸淵. 毋爲戎首, 不亦善乎! ’言當執之, 但勿爲兵首, 從人以殺之可也.” 曰: “盡是胡解! 子思之意, 蓋爲或人問‘禮爲舊君有服’, 禮歟? 子思因云, 人君退人無禮如此, 他不爲戎首來殺你, 已自好了, 何況更望其爲你服? 此乃自人君而言, 蓋甚之之辭; 非言人臣不見禮於其君, 便可以如此也. 讀書不可窒塞, 須看他大意.” 僩(69이후).
  •  133:45 恢復之計, 須是自家喫得些辛苦, 少做十年或二十年, 多做三十年. 豈有安坐無事, 而大功自致之理哉! 道夫(60이후).
  •  133:46 今朝廷之議, 不是戰, 便是和; 不和, 便戰. 不知古人不戰不和之間, 亦有箇且硬相守底道理, 卻一面自作措置, 亦如何便侵軼得我! 今五六十年間, 只以和爲可靠, 兵又不曾練得, 財又不曾蓄得, 說恢復底, 都是亂說耳. 㽦(59때).
  •  133:47 某嘗謂恢復之計不難, 惟移浮靡不急之費以爲養兵之資, 則虜首可梟矣. 道夫(60이후).
  •  133:48 近見吳公濟會中朋友讀時文策, 其間有問道德功術者二篇: 一篇以功術爲不好; 一篇以爲有道德, 則功術乃道德之功術, 無道德則功術不好. 前篇不如後篇. 某常見一宰相說, 上甚有愛人之心, 不合被近日諸公愛說恢復. 某應之曰: “公便說得不是, 公何不曰愛人乃所以爲恢復, 恢復非愛人不能?” 因說爲政篇道·德·政·刑與此一般. 有道德, 則刑政乃在其中, 不可道刑政不好, 但不得專用政刑耳.
  •  133:49 本朝禦戎, 始終爲“和”字壞. 後來人見景德之和無恙, 遂只管守之. 殊不知當時本朝全盛, 抵得住. 後來與女眞, 彼此之勢如何了! 揚(54-6때). 和戎.
  •  133:50 問: “不能自强, 則聽天所命; 修德行仁, 則天命在我.” 因說靖康之禍云云, “終始爲講和所誤. 虜人至城下, 攻城, 猶說講和. 及高宗渡江, 亦只欲講和.” 問: “秦檜之所以力欲講和者, 亦以高宗之意自欲和也.” 曰: “然. 是他知得虜人之意是欲厭用兵. 他當初自虜中來時, 已知得虜人厭兵, 故這裏迎合高宗之意, 那箇又投合虜人之意. 虜人是時子女玉帛已自充滿厭足, 非復曩時長驅中原之銳矣, 又被這邊殺一兩陳怕了. 兼虜之創業之主已死, 他那邊兄弟自相屠戮, 這邊兵勢亦稍稍强, 所以他亦欲和.” 卓(미상).
  •  133:51 秦檜自虜中歸, 見虜人溺於聲色宴安, 得之中國者日夜爛熳, 亦有厭兵意. 秦得此意, 遂歸來主和. 其初亦是矣, 然猶已奉之, 蕩不爲一毫計. 使其和中自治有策, 後當逆亮之亂, 一掃而復中原, 一大機會也, 惜哉! 揚(54-6때).
  •  133:52 秦檜講和時, 歲幣絹二萬五千匹, 銀二萬五千兩. 今歲絹減五千匹, 銀減五千兩, 此定數. 每常往來人事禮數, 皆用金銀器盛腦子貴藥物之類, 所費不貲. 大約等絹三千五百文一匹, 銀二千五百文一兩, 大數一百二十萬緡. 彼來時, 只是些羊巴匹段之類, 甚微. 揚(54-6때).